犬・猫は殺してはダメで、ゴキブリは殺しても良いのか?の話
過激なタイトルでごめんなさい。
今、テラフォーマーズという漫画を読んでる。12巻くらいで止まっちゃってたので、改めて読み直してる。
火星で進化したゴキブリとワァーっと戦う漫画なんですが、これを読みながら思った。いや、正確にはきっかけはテラフォーマーズだけじゃないのだけれど。
ゴキブリって何で殺しても良い感じになってるの?
じゃあ蟻は?毛虫は?カブトムシは?猫は?犬は?人間は?
どこに我々人間は線を引いてるのか。人間はどこに線を引いていて、翻って俺はどうなんだろうと、最近はボンヤリとそんな事を考える。
まず人間と犬。人間も犬も殺しちゃダメだ。殺しちゃダメなんだけど、人間と犬の間には明確に線が引かれてる。
自動車保険とか入ってる人なら分かると思うんだけど、もしも犬や猫を轢いてしまった時って、犬や猫は「モノ」扱いをされる。殺人罪とは違う。器物損壊的な、そんな罪になるらしい。
もちろんこれは法律上の話で、情緒を抜きで考えると、人間は「人間」と「犬・猫」の間に線を引いているらしい。
まぁそれもそうか。法律なんてものは人間が心地良く生きる為に作られたもので、全ての生物を愛するために作られたものではない。人間を最上位に置くような作りになってるのは理解出来る。俺もここに線を引くのは今のところ賛成出来る。
もしかすると世界中のどこかの国では犬・猫を殺すのと殺人がイコールの罪の重みになる国もあるのかもしれない。もしもあるならば、とても興味深いし勉強してみたい。
イスラム系の国とかそんな感じなのかな。分かんないけど。
犬・猫とゴキブリの境界線はどうだろう?
ここにも明確に線が引かれているように思う。
つい最近、茨城の動物愛護団体で猫を虐待した男が書類送検された。虐待された猫は死んでしまったらしい。
このニュースを見て、実際に虐待をしてる動画を見てしまって、この男を憎く思ったし、もし天国と地獄があるなら地獄に落ちろと思った。けれど、この男の罪はきっと大した罪にはならないんだろう。なんともやるせない気持ちになる。
と思った所で、「あれ?」と思った。
俺、猫を虐待する人は許せないんだなと。犬・猫でいうと犬派だし、スヌーピー好きだし、まぁそれはどうでもいいんだけど、猫が虐待されていて、とにかく悲しかった。
一方で俺は、自分の生活圏に虫がいたら迷わず殺してるなぁと。
蚊も、ハエも、ゴキブリも、蜘蛛も、見てしまったら殺すようにしてる。ほとんど感情も持たずに。でも、俺は罪に問われない。これを罪に問う法は、いまの日本には多分ない。
例えば野良の猫や犬が何かの拍子に家に紛れ込んだ時、もちろん殺さない。カブトムシでも殺さない。テントウムシも殺さない。蟻でもたぶん殺さない。
この基準って、凄くモヤモヤするなぁと最近思ってる。
おそらく「害かどうか」みたいなボヤッとした判断でもって、この生命体の命を奪っている。
ゴキブリから見たら人間が害なわけで、いや、ゴキブリだけじゃなくて多くの動物にとって人間こそが害なわけで。テラフォーマーズってそういう漫画だと思ってる。
RADWIMPSにもそんな歌があった気がしてきた。
猫を虐待する動画に胸糞が悪くなって、一方で、蚊は無心で殺してる。
この基準に正解は無いんだけど、なんとなく、これに疑問を持つ人間でありたいと思った。
今持ってる基準をわざわざ変えるつもりはないし、たぶんしばらくは変わらないとも思う。牛肉も鶏肉も豚肉も羊肉も魚も食べるし。蚊に刺されるのは嫌だし。
でも、少しだけ自分の基準を疑ってみようと思った。
一度引いた線を、基準を、定期的に疑わないといけないと思った。
人はきっと、無意識に引いてしまった基準がある。そこに気付けるかどうかって事も大事なんだ、きっと。
無意識に引いてる基準を疑って、自分なりに再定義して、それを繰り返してアップデートしていくことがダメな大人にならない方法なんじゃないかと思う。
昔はパワハラじゃなかったけど今はパワハラと言われてしまうような事を当たり前のようにやってしまうオジさんは、基準のアップデートを怠ってるのかもしれない。それは5年後の自分にも起きうる事なんだろうと思う。
俺も30代が目の前に見えてきたので、自分の基準を疑い続けようと思う。特に、無意識レベルで引いている基準を。
他の国や文化と交わる経験って、この「無意識レベルの基準」に気付けるから有意義なのかもな。なんて事も考えた。
あるいは子供とかはこの辺の「無意識レベルの基準」に敏感だったりするのかもしれない。「なんでゴキブリは殺しちゃうの?」みたいな無垢な質問に、自分なりに考えた基準を伝えてあげるのが教育なんだろう。そして、基準をアップデートしたら、またそれを伝えてあげた方がいい。
次に蚊に食われた時の俺は、次にゴキブリを見つけた時の俺は、今よりもアップデートしてますように。
エレファントカシマシ『Easy Go』でボロボロ泣いた話
大好きな曲がある。
ドラマ「宮本から君へ」の主題歌であるエレファントカシマシ『Easy Go』だ。
まだフルバージョンを聴いたことがないけれど、既にこの「宮本から君へ」のオープニングを40回くらいリピートして聴いた。
2018年のベストソング、多分これだと思う。マジで。
これのオープニングの1分くらいを聞いて、家でボロボロ泣いた。
久しぶりに音楽で泣いた。
Aメロ⇒Bメロと、サビが連発してるような展開。そして本物のサビで最高のメロディとメッセージが炸裂する。
最高の未来この胸に抱きしめる
そう Let's go!!
Easy Easy 転んだらそのままで胸を張れ
この2つのフレーズで泣いた。
宮本浩次は51歳。51歳が「最高の未来この胸に抱きしめる」「転んだらそのままで胸を張れ」って、最高じゃねぇか。
俺の大好きなMOROHAの、そして「宮本から君へ」のエンディング曲である『革命』に、こんなフレーズがある。
悔しさの、跡地で笑え
ニュアンスは異なるし、意味合いも少し違うのだろうけど、俺は『Easy Go』と同じようなメッセージを感じる。
転ぶことや失敗することを恐れるなよ、全速力で走ろうぜ、その先に最高の未来ってあるんじゃねぇの?って、自分に言い聞かせてるんだ。誰に説教するわけでもなく、ひたすら自問自答を繰り返して、自分自身に向けて。
そして問われてる気がする。
「お前はどうだ?」って。
宮本浩次とMOROHAに。あの真っ直ぐな熱量で。
これが、俺の定義するロック。自己の圧倒的な熱量で他人を巻き込んでいく。これこそがロックだと思う。
俺は、こいつらの挑発に乗っかろうと思う。巻き込まれてやろうと思う。
失敗をしないことを良しとする社会で、何回でも転んでやろうと思う。全速力で走れば、転ばないようにしてるやつより、ずっと前に進むはずだ。
まさか23歳も年上の宮本浩次に、ここまで挑発されるとは思わなかった。
51歳が転ぶことを恐れずに、何回も立ち上がると宣言してるのに、20代の俺が負けるわけにいかないね。
ロジカルシンキングって何?第2回
今回はロジカルシンキングについて、その②。
前回は、そもそもロジカルシンキングってどういう役割なの?なぜ勉強するの?という話。
▼前回記事
今回は、ロジカルシンキングってどうやるの?って話。
ロジカルシンキングの方法(一般的な)
ロジカルシンキングの方法について。
有名なのがロジックツリーを立てるやり方。ロジックツリーは「MECE」が基本になります。
MECE:漏れなく、ダブりなく。
という意味。ロジックツリーを立てるときは「漏れなく、ダブりなくツリー状になっているか」が重要。
この辺はネットにたくさん落ちてるので調べてみてください。特に面白くない普通のやり方。
▼この記事とか分かりやすい
個人的にこの辺はどうでもいい。というか誰でも勝手に頭の中でやっていることだし、新しいと思える考え方ではない。
ロジカルシンキングの方法(自分が気を付けていること)
ここからは、ロジカルシンキングにおいて自分が気を付けていることと、講義で面白かったことを交えて。
キーワードは
・相関関係と因果関係
・論理の飛躍
相関関係と因果関係
例えば
「私が鹿島スタジアムに足を運ぶ」という事象を分析する。
多くの企業は、「茨城生まれで、サッカー好きで、スタジアムから一定の距離に住んでいて、ある程度の収入がある」といったことを要素として関連付けようとする。
しかしそれは一見正しいようで正しくないと思っている。それはあくまで相関関係であって因果関係ではない。それらの要素は、私が鹿島スタジアムに足を運ぶ理由ではない。茨城生まれのサッカー好きでも、鹿島スタジアムに全く足を運ばない人を、私は何人も知っている。
私がスタジアムに足を運ぶ理由としては、「友人にもサポーターがいて、鹿島アントラーズの話をするのが一つのコミュニケーションの手段になるから」といったこと事の方が、因果関係としては近い。ビッグデータで得られるデモグラフィックスのほとんどが、「相関関係の域を出ない」というのが持論。
ここを勘違いしていては、永遠にクリティカルな解決策は見つけられないし、イノベーションも生み出せないと思っている。
つまり、デモグラフィックスを使用した分析は、一見ロジカルであるように見えるが、そのほとんどが「相関関係を述べているだけ」であり、それらのデータを用いるときにロジカルになったつもりでいるのは良くないぜ、という話。
演繹法:事実に対してルールを適用し、結論を導く。
例えば↓
事実:ソクラテスは人である
ルール:人はすべて死ぬ
結論:ソクラテスは死ぬ
帰納法:具体的な実例を列挙し、一般化(ルール化)を行う
例えば↓
実例A:ベートーヴェンは死んだ
実例B:織田信長は死んだ
実例C:ジャンヌダルクは死んだ
一般化(ルール化):人はすべて死ぬ
こんな感じ。帰納法で重要なのは、例外が生まれた瞬間に一般化できないということ。つまり、↑の例ならば、死なない人間が発見された瞬間に「人はすべて死ぬ」というルールは崩壊する。つまりルールはあくまで「おそらく~~である」というレベルを超えられない。
そして演繹法においては、「ルール」に例外が発生しうる可能性を忘れてはいけない。「ルール」が変わった瞬間に、結論が変わってしまうのだから。
この2つの思考を組み合わせたのが「仮説演繹法」で、ビジネスでのいわゆる「仮説」「仮説」と連呼されるのは、この方法。事象から予言を導いて、それが正しいか検証する。
ビジネスにおいては全てが「仮説」であり、「売れるルール」「集客できるルール」なんてものは存在しない。だから仮説の思考プロセスが重要であり、演繹>帰納>仮説の論理の強度についても理解しておく必要がある。
論理の飛躍
最後は論理の飛躍。実はこれもロジカルシンキングの落とし穴になりがちなところ。
実は「相関関係と因果関係」でも「帰納・演繹・仮説」でも、論理の飛躍は常に気にしないといけない。
例えば↓
リンゴが落ちた⇒引力があるのではないか?
世間で頻繁に使われるニュートンのこの例は、論理が飛躍している。ニュートンはもっと論理的な思考を繰り返した結果引力を発見したはずであって、「リンゴが落ちた⇒引力がある」というのはロジカルではない。
ロジカルシンキングの限界
ここまで書いておいてなんだけど、一番重要なのはココ。
ロジカルシンキングには限界があるよ、ということ。
というのも、ビジネスは仮説⇒検証の繰り返しなわけだけど、仕事には時間的制約が必ずある。時間は有限。だから、いつまでも仮説に時間をかけてるやつは使えないよ。という、それが講義で一番勉強になったことだった(苦笑)。どんなにロジカルな仮説であろうと、顧客にウケなかったら意味がない。
抜群にロジカルな一つの仮説よりも、適度にロジカルな10個の仮説を試した方が、ビジネスでは成功の確率がグンと高まる。
つまりロジカルシンキングなんてのは、「物事を考えるスピードを上げるため手段」あるいは「筋違いな仮説を立てないための手段」であり、成功を約束するものではない。
ロジカルに考えられないやつは論外だが、ずっとデスクの前で考え込んでるやつも使えないよ。
今のところ、それがロジカルシンキングの立ち位置。
とりあえず、こんな感じでしょうか。気が向いたら第3回も書くかも。
ロジカルシンキングって何?
今回は大学院で最も面白かった講義について書きます。講義概要はざっくりと「ロジカルにビジネスを考えよう」みたいな感じです。
講義の内容って著作権あるのか?ブログに書いて良いのか?というところがよく分からないので、教えてもらったことを自分の中で消化して、自分の考えとして書こうと思います。たぶんそれならオッケーなはず。
就活性や新入社員、あるいはルーチンワークが多くて思考停止しそうな人にとって興味深い内容にしたいと思います。
なぜロジカルシンキングなのか?
なぜ自分がこの講義に興味を持ったのか?
それは自分が「こういうこと」を 学ぶために大学院に通ってるからだ。
人を説得する時、自分の思い通りに動かしたい時、3つの事が有効であると思っている。
「数字」か「共感」か「論理」だ。
「数字」は「実績」とも意味合いが近いので、一旦置いておく。これに無敵の説得力があるのは、言わずもがな。
「共感」は自分の苦手分野。ビジネスの、特に社内政治において、「共感」(=可愛げ)みたいなのはめちゃくちゃ有効。特に賢くもないのに昇進しちゃう人が、あなたの会社にもいるのではないか。きっとその人は「共感」を呼ぶのが上手い人か、ラッキーで数字をあげちゃったか、ラッキーな外的要因か、どれかだと思う。
個人的にはココを自分のストロングポイントにするのは違う。今さら私は可愛くなれない。ココを突き詰めるなら、心理学を学ぶべきだ。
最後は「論理」。コイツを自分はもっと向上させたい。論理が破綻していない人の話は、少なくとも傾聴に値する。そして論理的思考が出来る人は、「成功」に必然性を感じさせることが出来る。「論理」と「数値(実績)」の組み合わせは、自分の価値を上げる、もっとも手っ取り早い方法だ。
だから自分は「ロジカルシンキング」について考えたいと思った。
どんな講義?
経営学修士課程で勉強すると、「フレームワーク」をよく勉強する。SWOT分析とか、4P分析とか、バリューチェーンとか、ビジネスモデルキャンバスとか、定番のところだとそういうやつ。
この辺のフレームワークを、「どこでどう使うか?」というのがこの講義の主題のひとつ。
ビジネスを「一つの家を建てること」と例えるならば、SWOT分析はトンカチで、4P分析は釘で、とした場合、それぞれは「どの工程で活用するものなのか」を考えるということ。工具だけもらっても、どこで使うか分からなかったら意味ないよね、みたいなこと。
これらの工具は、結局工具でしかないわけで、実際に工具の使い方を考えるのは人。
ロジカルシンキングの役割
さて、ロジカルシンキングについて考えてみる。
教授が言っていた面白いこと。「ロジカルに考えるのが苦手な人は、ずっと上手くならない」。あぁ、こういうことをハッキリと言う人は好きだ。
「誰でも頑張ればどうにかなる」みたいなのは好きじゃない。学んでも、出来るようになる人と、出来ない人は必ずいる。だから「出来ない人」の側に落っこちないように、ロジカルシンキングという構造そのものをよく考えて消化しないといけない。
まず、ロジカルシンキングの役割。
ロジカルシンキングとは、「ロジカルに考えること」なわけだけど、それをどうやって使うか、という話が重要。
ロジカルシンキングは、ビジネスにおいては自分の考えを人に伝えるために使用する事が多い。その段階は3つある。
【人に考えを伝える3つのプロセス】
①自分の思考を纏める(課題を分析し、解決までのプロセスを作る)
②纏めた思考を資料や文字に落とす
③それを人にプレゼンする
ロジカルシンキングは、①の段階を担っている。しかし、重要なのは①で考えた形を③まで100%の形で伝えること。80%になってもいけないし、120%でもいけない。
自分の考えをぴったり100%で伝えることが最強のロジカルシンキングとはセットであると言っていいと思う。
ロジカルシンキングは、①のレベルを上げること・精度を上げることに役立つ。しかし、それだけだとはっきり言って意味がない。このことに自分は気付けなかった。ロジカルであることが正義だと思い込んでしまっていた節があって、それを③まで正確に伝えてこそ価値を発揮するのだと知った。
例えば事業計画を作る時もそう、仕様書を書く時もそう、デザイナーにデザインを発注する時だってそうだろう。①がいくら立派でも、②③が不十分であれば、その人はビジネス上はロジカルではないことになり得るし、狙い通りに事を運ぶこともできないだろう。
つまり、伝えることまでがセットでロジカルシンキング。ということなんだろうと思う。
ロジカルシンキングの精度を上げる方法
ロジカルシンキングの精度を上げる、その唯一の方法は「疑うこと」。
なぜ?を突き詰めること。
「この考えは合ってるかな?」と疑うのではなく、「この考えは間違っているのではないか?」と疑う方が良い。これが精度を上げる唯一の方法。
結局、「ロジカルであること」というのは、「それらしい考え方をしてること」以上の存在にはなり得ないと思う。
しかし、それは自分自身の納得感と相手の納得感の架け橋にもなり得る。ビジネスが人を相手にするものである以上、お互いに納得感を持って事を運ぶのは本当に大切。
また、課題の本質を見極める上でもロジカルシンキングは役に立つ。
例えば、自分の部下の田嶋君がAというサービス(あるいはソリューション)を考え付いた。
それを提案された時に、必ずなぜを繰り返して聞いてみる。
Aというサービスを考え付いた
↓
なぜ
↓
Bの人に約に立ちそうだから
↓
なぜ
↓
Cに課題を抱えてるから
この時に、Cの課題に対するAのサービスは適切なのか、コスト/時間的に他のサービスはあり得ないのか?を疑う。さらに言えば、Cの課題は切実なものか、放置できるレベルの課題なのかを疑う。
そのように思考を深めた時に、Aが最善でないケースは往々にしてあり得る。というか、大体の場合は最善ではない。代替案としてDもEもFもあり得る。課題の設定そのものがイケてない場合もある。
田嶋君が考えるべき順番は間違っていて、Cから出発するべきであって、Aから出発してはいけない。Aから出発した時点で、それはロジカルではなく、こじつけに成り下がる。
田嶋君だけでなく、多くの人が、Aを「自分の出来ること」や「やりたいこと」から考えてしまっている場合がある。ビジネスの基本が「誰かからお金をもらうこと」である以上、Cから考えていない時点でビジネスとしてのロジックは破綻していると言っていい。
これを他人のアイディアだけじゃなくて、もちろん自分でも実行する。なぜ?を繰り返した末のロジカルなアイディアは、論破される確率が低くなるし、問題の本質に近づいている可能性も高い。
一旦今回はここまで!書きたいことの半分も書けてないので、ロジカルシンキングについては何回か書きますー。
※例として田嶋君を挙げたのは、ハリルホジッチ監督解任騒動の一件で、JFAの田嶋会長が全くロジカルじゃない考えをしていたので、ちょうどいいと思って名前を使わせてもらいました〜
「夜間の大学院に通う」という事。動機と時間とお金。
なぜサラリーマンとして働きながら夜間の大学院に通おうと思ったのか。この記事ではその事を「動機・時間・お金」の3点から書きます。次回以降からは授業について書きたいっす。
動機
動機は、「自分が豊かな時間を増やしたいから」。分かりづらいので少し説明する。
「今、自分が何をするか」という選択は、常に「自分がどんな人生を送りたいか」というのと繋がってると思う。
「自分がどんな人生を送りたいか」というのは、非常に難しい(笑)。
自分は今のところ、「豊かな時間を増やしたい」という所に人生のプライオリティを置こうと思った。
そのために、お金が必要ならば稼がなきゃいけないし、音楽が必要ならライブハウスやフェスに行かなきゃいけないし、奥さんや子供が必要ならば結婚しなきゃいけない。
よく人生のプライオリティについて「家族・仕事・結婚・お金・友人・趣味」みたいな問いを見かけるけど、自分はその分け方は出来ない。目的と手段を履き違えているように感じる。幸せになりたいから、手段として結婚するんだ。結婚するから幸せになるわけじゃない。
目的はあくまで「自分が豊かであると感じるか」というのが第一。それが達成されるならば、お金も家族も友人も要らないのかもしれないとさえ思ってる(実際には欲張りなのでそんな事は起きないけど)。
人生のプライオリティを「豊かな時間」とした以上、仕事(お金稼ぎ)の時間をドブに捨てるわけにはいかない。
正直、サラリーマンの週5で毎日最低8時間って膨大すぎる。人生のプライオリティを「豊かな時間を増やす」とした以上、この週5・8時間をドブに捨てる訳にはいかない。
この8時間を、少なくとも自分の納得感のある時間にするには、勉強が必要だと思った。今の自分は頭が悪すぎると思った。
なんとなく仕事がうまく回ることが多かったけど、それは運かセンスのお陰であって、理論立てて成功してるわけじゃない。自分の成功を自分で言語化できないのは悔しい。
その勉強に一番適しているように見えたのが、大学院の経営学修士課程かなと思った。
それが動機。
もっと言えば、サラリーマンなんか辞めて、ほかの稼ぐ手段を見つけるためにも役に立つと思った。自分の想像の埒外の、変な稼ぎ方を見つけられれば御の字だなぁと思った。
時間
働きながら大学院に通うのは時間的には結構キツい。今の自分はざっくりこんな生活。
【月・金・日】
講義無し。月金は働くだけ。だけど、火水木に残業できないので、月と金は多めに残業する。日曜は休み。平日になかなか飲み会に行けない。
【火・水・木】
8時半:出勤
17時半:退社
18時半:講義開始
22時:講義終了
23時:帰宅
【土曜】
11時:講義開始
15時:講義終了、一週間分の課題を片付ける
17時:課題終了、帰宅
こんな感じ。
うん、眠い!(笑)
動機の所で書いた「豊かな時間」が大学院に通う事で奪われてるんじゃね?って思うくらい。
でも、これを求めてたので今のところは超楽しい。この時間を楽しめてるならオッケー。
自分の価値観として、「時間」は大事。だけどその事を書き始めたら終わらないのでまた今度。
お金
夜間の大学院に通うといくらかかるのか?
自分の場合は2年で120万。母校の大学院に入ったので入学金無し。授業料のみで120万。他大学出身者は、たぶんプラス20万くらいかかる。
うちの大学院の経営学修士課程は、修了後にハローワーク行けば10万貰えるらしい。なので実質110万。
これはかなり安い部類らしい。経営学修士通おうと思うなら200万くらいは準備した方がいいかも(若干テキトー)。
「どこの大学院入ったねん!」と思った方、今後このブログで授業についてある程度自由に思いを書きたいので大学名は書きません。ごめんよ。
安い授業料の大学の経営学研究科をググってもらえば分かると思う。たぶんそこです。
で、120万。120万。これは高いのか、安いのか。こればっかりは卒業して10年くらい経った後に初めて総括できると思うので、まだ分からない。
サラリーマンならば大学院卒業後30年は働くので、その30年で収入が120万以上UPすればオッケー。と考える事にしてる。リクープりくーぷ。
そして120万なんて絶対に超余裕で取り返せる。と思ってる。
卒業後5年後くらいから、大学院行かなかった場合と比べて年収で50万くらいは差がつく予定。それが25年なので、生涯で1250万はUPしたい。
これは何か確証があるわけでは勿論無いけど、経営学修士課程を無事卒業すると、ビジネスについて講義時間だけで22,400分勉強する事になる。時間にして373時間。実際は最低限の単位以上に講義を取るので28,000分(466時間)くらい。課題や論文の時間を含めると600時間くらいなのかな。
ビジネスについて600時間勉強して、仕事に好影響なかったらボケナス。ボケナスにはなりたくないいぃ。
そんなこんなで、授業料の120万が1250万に変身したらいいね、バンザーイ!
終わりっ!!!
Aviciiが死んでしまった◢ ◤
こんにちは。アクセスいただきありがとうございます。
このブログは基本的に自分のために書いてますが、どこかの誰かのためになるかもしれないので、一応公開します。興味がある方は読んでください。
自己紹介:1989年生まれ、茨城県出身東京在住。社会人経験は2018年4月時点で6年?くらい。
趣味はサッカーと音楽と映画と漫画。
さて、このブログは大学院で学んだ事をところてん式に忘れそうなので、気付きを書き連ねる目的で始めました。が、初回は経営学修士課程の事は書きません。(笑)
Aviciiが死んでしまってそれどころじゃないから。
だから今日は大好きなAviciiの思い出を書きたいです。
◢ ◤Aviciiの思い出◢ ◤
俺はAviciiの「The Nights」 という曲が大好きだ。好きな曲はたくさんあるんだけど、とりわけこの曲が好きだ。
He said, "One day you'll leave this world behind
So live a life you will remember."
サビのこのフレーズがたまらなく大好き。
EDMって馬鹿の音楽だと思う。良い意味でも悪い意味でも。
基本的にバカ騒ぎしている時に流れているものだし、泥酔しながら爆音で流れているという前提で作られている曲が多いと思う。そして都会の喧騒(渋谷や新宿)の中で聞くEDMってのは、めちゃくちゃ合う。人通りが多くてサイネージも多いから目が疲れる。だから頭の中も馬鹿にしちまった方がラクだったりするのかな。
でもAviciiの曲は、田舎で聞いても合うんだ。
登山のために長野の山道をドライブしてる時に流しても合う。田舎の海沿いをドライブしてる時も合う。もちろん都会の喧騒の中で聞いても合う。
「なんでだろう、何がほかのEDMと違うんだろう。」といつも思ってたんだけど、きっとAvichiは「思い出から"今"を見つめて」曲を作ってたんじゃないかな。と思ってる。
泥酔した誰かを躍らせるために作ったんじゃなくて、「自分が育った田舎を思いながら、でも時は戻らないから今は何をしようか」みたいな、そんな気持ち。
それを歌詞だけじゃなくて音に落とし込めてる気もする(詳しい技法は知らない)。
EDMやダンスミュージックに「思い出」みたいなのは基本的にマッチしないはず。だって「嫌なことを忘れたい」やつが集まる場所で流れることが多いから。
「一瞬で忘れろ!長い目で見りゃカスみたいな問題どーだい問題外」みたいな、EDMはそんな精神のものだと思ってる。 (本当は違うのかもしれないけど、少なくとも俺はその効果を期待してEDMを使ってる)
でもAviciiは過去を見つめながら曲を書いてる気がするんだ。思い出を忘れないことってやっぱり大事だよね。みたいな。
「The Days」という曲でも
These are the days we'll never forget
と歌ってるしね。
だからAviciiは好き。
思い出は未来を良くする事はないけれど、人生を豊かにしてくれるものではあると思ってる。
「The Nights」の歌詞だって、親父との思い出話だ。
親父に説かれた言葉を思い出してる、そんな歌。
「ちっちゃい時に大人が言ってたあの言葉、当時は意味わかんなかったけど、今ならよく分かるなぁ」
みたいな、誰にでもある感覚。そんな歌。
今日は本当はDragonAshを聞く日なんだけど、Aviciiばっかり聞こう。
"One day you'll leave this world behind
So live a life you will remember."